ドキュメンタリー ・ パイロットの苦闘 御巣鷹山の悲劇

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石原都知事、アホな記者
の質問にブチ切れ

全編(1時間)を公開



風化させてはいけない大惨事 (御巣鷹山の悲劇)

あれから26年、人々の記憶からは次第に消えつつある御巣鷹山の大惨事。 しかし、犠牲者の遺族、家族にとっては20年経っても、30年経っても終わりのない悲劇である。 二度と繰り返してはならない航空機事故。

人々の記憶から段々消え去る事故を消えさせないためには毎年毎年繰り返して報道する必要があろう。
しかし、事故後20年以上も経過すると新聞、テレビもその報道は慰霊登山のニュースが2~3分間程度となってしまう。
今の若者達も26歳以下の人たちにとっては産まれる前の話、30歳以下の人々としてもほとんど記憶に無い話となるであろう。

このDVDはフライトシュミレーターを使用し羽田を離陸した日航機が伊豆半島手前で異常事態発生を告げてから御巣鷹山までの 30分間を事故調等が公開している資料から「御巣鷹山までの30分間」をリアルに再現している。
ドラマではないので乗客等は一切写っていない、JAL機が異常発生を告げてから以降の30分間をどのように飛行したかを再現した ものである。したがって、ビデオに出てくるのはJAL機だけである。
解説もビデオの作者自身がナレーションをしているので商業用のテレビ番組とか映画のそれと比較するといまいちであることは作者自身が一番 良く分かっている。要は内容であろう・・・。

圧力隔壁の崩壊に伴う垂直尾翼の破損、欠落及び油圧系統の破断。
それらは機体にどのような影響を与え、どのような不具合が生じるかを技術的に解説。

JAL123便は圧力隔壁の損傷で油圧系統が破断した時点で上昇、下降、旋回をするすべての機能を失っていた。
ただしエンジンだけはその機能とは別であり支障はなかった。エンジンは駆動していても機体のコントロールが効かないということは、 機はかろうじて直進ができるのみの飛行機であった。
その直進と言っても、風が北から吹けば南に流される。南から吹けば北に行ってしまう。ただ真っ直ぐ飛ぶだけの飛行機(つまり紙飛行機にも等しい)になってしまった。
更に、飛行機は上昇や下降を組み合わせて飛ぶものだか、その上昇も、下降もできなくなっていた。エンジン出力を上げるとノーズアップ(機首が上がること)するだけで飛行高度は上がらず、機首が真上を向けばいうまでも無く失速してしまう。 緊急降下をするためにエンジン出力を下げるとノーズダウン(機首が下がること) となる。この場合は地球の重力の関係で高度も下がる、一旦機首が下がるとまっ逆さまに墜落の危険がある。なぜならJAL機は一旦機首を下げたらそれを回復する操縦系統が使えなくなってしまっていた。 飛行機が普通にできる降下と上昇、それがJAL機にはできなくなっていた。エンジン出力の微調整だけでかろうじて墜落をすることなく飛行を続けていた。 しかし際限なく飛行できるものではない、いつかは降下し地上に降りなければならない。

機は離陸時の危険から脱しほぼ水平飛行に入る直前の緩やかな上昇状態にあったために事故・即・墜落を免れた。
これが離陸直後であれば間違いなく即座に墜落していたであろうと言える重大な事態であった。
フラップ(補助翼)、エルロン、エレベーター(水平尾翼)、ラダ-(方向陀)等は殆ど水平飛行に近い状態で「ロック」(操作不能)されてしまった。
  糸の切れた凧はすぐに落ちるが、JAL機もそれと同じような状態であった。しかし、JAL機にはエンジンが付いていたため即墜落は免れた。 しかし、どこへ飛んで行かは誰も分からない。パイロットは必死に操縦桿を握ったが全く反応がなかった。

キャプテンは東京航空管制官に「緊急降下中」という言葉を何度も発している。しかし、機は全く降下していないのであった。
緊急降下の努力はしていたが、機体はただ真っ直ぐ前に飛ぶだけであった。降下のしようがないのである。
高度も8000m近い高空を飛んでおり、客室の与圧は効かず、酸素ボンベも 緊急事態発生後5分間ほどで使い尽くしていた。エベレスト山頂に無酸素登頂するに等しい状況であった。子供やお年寄りには危機的状況である。
管制官はレーダーで補足しているのでJAL機が「緊急降下中・・・」と言いながらも、実際は高度を下げていないことが分かっていた。
そのためそのまま真っ直ぐ飛んで名古屋空港に降りたほうが良いのではないかとも考えた。
しかし、羽田のほうが緊急時の救助体制も機器も整っていることをキャプテンは知っていた。

その機体をなんとか羽田空港までもって行こうと動かない操縦桿を必死に握り続け、パイロット3人はあらゆる手を尽くしてやっとの思いで機を八王子、米軍横田基地の近くまで(羽田までわずか10分の距離に) もって行くことができた。 「とにかく羽田に行けばなんとかなる・・・」これは機長の願いであったに違いない。 最悪、胴体着陸でも、海に突っ込んでも、「羽田なら救助体勢が整っている」。これにかけるしかなかった。

横田基地の手前で右に旋回し南東方向に向かなければならないところで、機はなぜか左に向いてしまう。
無理もない話で、空中をただよう落ち葉のようなものなので風が東から吹けば西に流されてしまうのであった。落ち葉と違う点はエンジンがあるからすぐには地上に 落ちない点である。
直進しかできない機をそこまで操縦して来たこと自体がその時代の操縦テクニックでは神業と言えるであろう。
それまでにいくら訓練を積んでもその時代にはそのような緊急事態に対処する訓練そのものが存在しない時代の話であった。
二重、三重の安全策が講じられていた油圧系統が全部一度にだめになるなどとはボーイング社も航空会社も誰も考えても見ないことであった。

なぜ、機首が左、北西に向ってしまったのか分かっていない。今までは機首前方には平野が広がり夕げの家々の明かりが眩いほどに輝いていたが、今は目の前に見えるのは黒いシルエットの壁、奥秩父の2000m級の山々の壁である。羽田に向け慎重に、徐々に下げてきた高度が今度は足かせとなる。そのまま飛行したのでは奥秩父の山に激突する危険がベテラン・パイロットにはすぐ分かった。「高度を上げなければ・・・」と分かっていてもその高度が上げられない、機は操縦不能なのである。 でも、何とかしなければならないのである。最後まで諦めてはならないが、この時点でパイロットはポツリと独り言をいう。「これは、もうだめかも分からんね・・・」

伊豆半島の上空で異常事態が発生してから早30分が経過していた。いままでは障害物のない平野の上空をなんとか飛行してきた。 でも、それがどれだけ大変な操縦だったかキャプテンが一番良く知っている。やっとの思いで30分を飛んできた。しかし、今はどうか、目の前に奥秩父の2000m級の山々が壁となって立ちはだかっている。それをどうクリアーしたら良いのか。 操縦不能の飛行機でどう飛び越えろというのか? もう万策付きかかっていた。

でも、最後の最期まで3人のパイロットはできうるあらゆる努力をしていたことがコックピット・ボイス・レコーダーから分かったのである。 操縦ミスの疑いは微塵もなく、最期まで頑張ったパイロット達の努力にただ頭が下がる想いがする。 合掌。



この日航機の事故をきっかけにしてそれ以降の航空業界では油圧系統がすべてだめになった場合の操縦方法を習熟することが 必要となった。 JAL機事故から10年以上が経過したある年のことであるがアメリカでユナイテッド航空のDC-10型機が全く同じ状態に陥ってしまった 事故がある。
ご存知とは思うがその事故のビデオは http://jp.youtube.com/watch?v=0Q3kfa10M9o で見ることができる。

日航機の教訓を基に世界中のパイロットは油圧系統が不能になった場合の操縦方法を熟知する必要が生じていた。
ユナイテッド航空の場合も例外ではない。 UA機はかろうじて最寄の空港に着陸をこころみた。機は滑走路に激突、大破、火達磨になって滑走路上を滑って行った。 誰が見ても最悪の状態、200人以上の乗客の全員が犠牲になったと思った。

死者が50名ほど出てしまった。しかし、生存者も180人以上いた。
これもJAL123便の尊い520名の命がその後の航空業界のあり方、対処の方法を身をもって教えてくれたためであろう。
そのパイロットは「ヒーロー」として扱われた。
言い換えればこのJAL123便の520名の尊い命が後の180名の命を天国から救ってくれたと解釈するほうが良いだろう。
それにしても520名の命はいかにも多すぎた。